任 守幹・著 若松 實・訳(発行所:日朝協会愛知県連合会)
東 槎 日 記 江戸時代第八次(正徳元年)朝鮮通信使の記録
作成年(西暦) | 1711年 |
年号 | 正徳元年 |
文章カテゴリ | 江戸時代第八次(正徳元年)朝鮮通信使の記録 |
執筆者 | 任 守幹・著 |
宛先 | |
備考 | 若松 實・譯(発行所:日朝協会愛知県連合会) |
六十七頁
@村里は甚だ賑やかで平原広野の田畑の間には、溝が互いに連なっていて皆小舟が通じ、里芋畑は果てしなく茂っていた。村家では大部分竹を植えて籬を作り店舗の間には橘柚が堆積していた。
@一里進んで東方を望見すると、伏見城が山の麓の林の間に見え隠れして映じていた。此れは即ち秀吉の要塞であった。実相寺に着いて公服に着替えて倭京(京都)に入った。
@町の道を通り過ぎると道の左側に東欠寺が在って極めて雄壮で華麗であり、また五層楼が聳えて天に立ち上がっていた。道を挟んで見物する者は幾千万なのか分からぬが粛然として騒ぐことなく、或るいは合掌して祈る者も有った。其の富盛なことは大坂に比べて幾層倍だけではなかった。
@本国寺の前に館所を定めたが、左右に連なっている院刹は皆記録することが出来ない。館伴本多隠岐守藤原康慶が門外で迎えたが大坂であった儀式と同じように行った。
@夕方に島主と両長老が会いに来て茶を一巡杯して別れた。当地は山城州に所属しており、松平紀伊守信庸が接待のことを担当して乾鯛・昆布・蕨尊等の物を呈上した。
@此の日は四里進んだ。
2012.07.22 住職筆
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