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句碑巡礼

實相寺には「句碑」が立っている。お参りに来られる人もあまり関心を示されない。私も経緯はほとんど知らなかった。この度、古い新聞記事が出てきて、その経緯が少し判ってきた。

貞叟辞世句

句碑貞叟裏

ゆく道を 遠し常なき かぜの秋 貞叟

ゆく道を(は) 遠し常なき かぜ(は)秋 貞叟 (句碑を読むと2ヶ所文字が違う。これで句の意味も分かる。)

日蓮宗不受不施派の古サツ、実相寺は京都市南区上鳥羽の旧千本通のわき、鳥羽の野のにおいがなお残る鍋ヶ淵町にある。ここはまた江戸初期に生きた俳諧(かい)の祖、松永貞徳ゆかりの地である。彼は正保四年、喜寿の年、大仏殿の南、現・一橋校付近に晩年の居住として一舎を設けた。周囲にはカキ、モモ、サクラなどの木々を植え柿園と号し、園内には屋根、壁、天井もアシづくりの家を建てた。名づけて芦の丸屋。貞徳は承応元年(一六五二)十一月十五日、八十三歳で没し、ただちに実相寺に葬られた。芦の丸屋も後、弟子たちによって同寺に移され、すでに天明年間の「都名所図絵」にも記されている。談林、蕉風の出現以後、ようやく劣えを見せたこの伝統俳諧、貞門の遺風を伝え、昭和の前半、連歌俳諧の世界に生きたのが貞叟である。芦の丸屋に住み、寺で句会を持つなど白髯(ぜん)をなでながら風流人に終始した生涯は、人柄を語るさまざまのエピソードと合わせ、”最後の俳諧師”というにふさわしい。

柿園十世太田貞叟、またの名、太田米華は江戸末期、京の造り酒屋「九重酒」の家に生まれた。親交深かった先代の縁で貞叟を知る三条若狭屋の主、藤本和泉さん(76)の話では御幸町五条上ルにその家があった。しかし祇園一力などのはなやかな遊びに資産を傾け、のちにはこの間に習い覚えた芸が生計の道となった。実相寺の芦の丸屋にはいったのは昭和初年ごろ(四方行正住職の話)。昭和九年の室戸台風で庵がこわれる以前、昭和七、八年ごろまで住まいしたが、貞叟宗匠が句会を開き、京の旧家から嫁入りした夫人のふじさんが付近の娘たちを集め茶や花を教える日々だった。老齢で庵を去ってからは、東京で成功した子息のもとに身を寄せ、戦火の激しくなった昭和十九年七月、八十六歳でこの世を去ったという。その人柄は温厚、廉潔であった。また書や絵もよくし遺作は所々に残されている。

貞叟から柿園十一世をゆずられた中山米州師もいまはなく、貞門の伝統は杉山源春、吉川北斗氏ら平安吟社の長老によって、わずかに京の地で守られている。句は辞世。句碑は平安吟社の前身、朱雀吟社の人々によって、さる三十三年に建てられた。無人の芦の丸屋もいまは荒れ、碑のかたわらにおい茂ったツタをからませて立つカエデの古木が時の推移をうつしている。
昔、ある秋、モミジが散りしく寺の庭を余念なく掃く貞叟師に「葉が散るのでムダやない?」とたずねる少年に、彼は「掃いたあとに散るからいいのだ」と答えたという。四方住職の思い出である。

京都新聞(昭和43年11月13日 朝刊、文化欄)

Taro-句碑巡礼貞叟

今読むと、訂正箇所がいくつかありますが、発表当時のまま記載しました。

日蓮宗不受不施派の古サツ--→日蓮宗が、受不施、不受不施に2分したときに不受不施に組みしたのは事実ですが、今日包括法人は「日蓮宗」です。

上鳥羽のおうちには、米華さんの「絵画」「書・文字」「扇画」等があります。

1号線上り城南宮参道前の「おせき」に、太田米華師の絵が飾ってあります。ご覧下さい。

また、「おせき」の文字も米華さんに書いてもらわれたとも聞き及んでいます。

實相寺にも、俳画一幅、絵画軸1本が保管されています。

俳画貞叟
俳画貞叟

上記の「芦の丸屋」に、建物保全を兼ねて昭和42年3月まで寝起きしていたのが、現住職Gyougenでした。

Written by Gyougen

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